美濃んちゅの酒場

岐阜を愛する若者が、様々なことを調べたり調べなかったりするブログです。ローカルネタから真面目なネタまでジャンルはゆるめです😁✨✨覗いてみてください。

【雑感想】『神社とは何か』

今日は大晦日

2022年最後の1日。

明日から新年が始まる。

 

普段は宗教的な意識の低い人々も、年末年始には神社仏閣を訪ねるでしょう。

日本には約10万もの神社があると言われています。

その中には伊勢神宮宇佐八幡宮のような著名な神社もあれば、村にひっそりと立つ郷社やお社も含まれます。

かつて日本には現在の倍程度の神社がありました。

江戸時代にはだいたい「ムラ」単位で、共同体の氏神を祀る「郷社」があったと考えられています。

しかし明治時代に神社合祀の政策がとられ、それまで別の社で祀られていた神を1つの神社で祀ることで、神社の数は大幅に減っていきます。

ただこの政策は地域差が非常に大きく、三重県のように大幅に神社数を減らした地域もあれば、私が学生時代にテーマとしていた和歌山県那智勝浦町のように比較的多くの神社が残った地域もありました。

神社の合祀は私のような「古いものにロマンを感じる」立場からすれば非常に愚策であったと思ってしまうのですが、それまで無数にあった社を一括で管理することで、地域の歴史の中で埋もれてしまう可能性のある小さな祠の「神」が、まとめて管理することで現在にも伝わったという側面も無きにしもあらずなので、必ずしも悪と言い切れない部分もあります。

 

さて、やや話がズレましたが『神社とは何か』というテーマに話を戻しましょう。

著者は神社とは

自然界の生命力を神として信仰し迎え祀る場

と結論しています。

日本は言わずもがな多神教の国です。

それはかつての日本人の宗教観が、あらゆる自然現象や物体に精霊が宿ると考えたアニミズムに端を発しているためであり、人々はそのような精霊を時に敬い時に畏れ、祀ってきたのです。

八百万神と言われるほど日本には多くの神が祀られています。まったく性質が異なる神が同じ神社に祀られていることもあるかもしれません。

年末年始、神社を訪れた際には、その神社に祀られている神はどんな神なのかを意識してみると、また違った楽しみがあるかもしれませんね。

 

【読んだ書籍】

新谷尚紀 著『神社とは何か』,講談社現代新書

【雑感想】『人類の起源 古代DNAが語るホモ・サピエンスの「大いなる旅」』

「我々はどこからやってきたのか。」

いつの時代も私達は自分たちのルーツを求めてきた。

旧約聖書』によれば、神は土から最初の男「アダム」を創り、アダムのアバラから最初の女「イブ」を創ったとされる。

人間がどのようにしてこの世に生まれ、この星の「支配者」として繁栄を極めることになったのか。

その問を扱う領域は長らく西洋社会の中で「神話」や「宗教」であり、「自然科学」的な領域において人間が論じられるのはダーウィンの登場を待つことになる。

 

科学の発展に伴い、人間のルーツという大きな謎が徐々に明らかになってきている。

「DNA」をもとにルーツを明らかにする、そんな大いなる研究の「中間報告」として、現時点で明らかになっていることを著者は我々に示してくれている。

私がこの本を手に取ったのは偶然で、たまたまタイトルが目に止まり衝動的に購入した。

結果から言うと、購入したのは正解であった。

私は人類学は全くの素人であるが、非常に興味深く読ませてもらった。

古代の人骨からDNAを分析する方法があることなど、この書籍を手に取るまでは知らなかったし、現在の我々に繋がる「ヒト」の系譜に思いを馳せることはなかったであろう。

我々の細胞の中に古代からのメッセージが刻まれている、そんなロマンを感じられる素晴らしい1冊であった。

 

【今回読んだ書籍】

篠田謙一 著『人類の起源 古代DNAが語るホモ・サピエンスの「大いなる旅」』,中公新書

陶都を支えた街道 今渡街道を歩いたよ

久しぶりにこちらのブログを更新します。

(メインブログもほとんど最近更新していませんでしたが…)

 

「陶都(とうと)」という言葉をご存知でしょうか。

陶は陶磁器、都は都。

そう、陶磁器の都、陶磁器の生産地、岐阜県では多治見などを指す言葉として使われています。

 

というわけで今日はタイトルにもある通り、陶都多治見の発展を支えた「今渡街道」を散歩してきました。

 

古来から都市の発展には交通が欠かせません。

都市が発展するということは多くの人々が交流することを指します。

人々が交流するためには道なり港なりが必要です。

 

多治見の発展を促した街道は大きく2つあります。

1つめが現在の恵那市から名古屋を結んだ【下街道】、もう1つが多治見と河川舟運の港であった可児郡今渡を結ぶ【今渡街道】です。

 

今渡街道と下街道を同時に観測できるスポットが多治見市内にあります。


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多治見駅からながせ商店街を東に進むと、下街道と今渡街道の分岐点があります。

写真右側の道が今渡街道、左側の道が下街道です。

今日は今渡街道を散歩しました。

 

正直現在の今渡街道には往時の面影を残している場所はほとんどありません。

散歩しては見ましたが、根本を越えたあたりから街道の面影がほぼなく、「この道であってるの?」状態でした。

ただ時折現れる石仏達が、この道の歴史をなんとなく物語っている、そんな雰囲気でした。

 


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今渡街道を通って多治見からは陶磁器が運ばれ、今渡からは農耕馬などが運ばれたと言われています。

また荷馬車と言われる荷物を積んでものを運ぶ馬車もこの道を通ったと言われており、馬頭観音があることからもその雰囲気がなんとなく伝わります。

 


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街道歩きをしているときに「本当にこの道であってるのかな?」と思うことが多々あります。

そんなときに道標を見つけるとすごく安堵感があります。

道標はだいたい辻に設置されており、「右 〇〇みち 左 〇〇みち」などと記載されていることが多いです。

これを見つけたときの喜びと興奮はたまりません。

 

しかし残念ながら、今渡街道において上記のような歴史的な遺構は今日ほとんど残っておりません。

鉄道→自動車の時代を経てかなり開発が進んでしまっています。

 


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ただ、そんな時代だからこそかつての面影を見つけたときの喜びは至上のもの。

これからも散歩はやめられませんね。

怒りよ怒りよ

未だここは旅の途上。

墓場は何処と彷徨う魂に、旅人が奏でる鎮魂曲

地の底から湧き出る真紅の炎は旅人の身を焦がす。

その亡骸は再び語ることはない。

 

黒き衣を身に纏いし妖魔の背後から現れし廃墟。

扉を開ければ二度と光は拝めない。

血に染まったカーテンは踊り狂いながら窓硝子に楽園を描いた後は、ただ静寂が包む闇の中。

くだらない人間になるな

私は仕事柄様々な種類の人と関わる。

高校大学とスムーズにレールの上を歩いてきた私にとっては、それまでの人生では関わることのなかった種類の人とも関わるため、最初はかなり戸惑うことも多かった。

ホスト崩れの人間もいれば、医大の学生を名乗る謎の男、すごく人当たりがいいのに何故か小指が異常に短いおじいさんなど、私が大学生までに関わってこなかったタイプの人が世の中には多くいることを知った。

彼らはみな多種多様で、いい人もいればろくでもないヤツもいる。8割方ろくでもないやつが多いが。

 

そんなろくでもないヤツの中でも個人的に「ほんとにろくでもねぇな」と思う、というか理解に苦しむタイプの人間がいる。

それは逆ギレするタイプの人間だ。

 

そもそも逆ギレとは、自分の論理の矛盾を指摘され、どうあがいても論理的に絶体絶命な状況の人間が最後に使う手段であり、とりあえず大声を出す、罵る、ハチャメチャな理論で押し通そうとする敗者が最期に見せる行為である。

 

逆ギレはすでに述べた通り敗者の技である。

逆ギレする時点で負けが決まっているのだ。

それにも関わらず最後までどうにかして負けを認めないでおこうという行為が非常に見苦しいし理解に苦しむ。

 

さっさと負けを認めておけば終わるものを、逆ギレすることでさらに論理の穴をほじくられ、どんどん沼にハマっていく。

 

そんなタイプの人間が私は本当に理解できない。

ふるさとがえり

私は岐阜県恵那市にある三郷町という町で生まれ育った。コンビニもなければ娯楽もない。あるのは田んぼと森ばかり、そんな場所での暮らしは正直味気なく、結果として故郷を捨てて県都のお膝元で暮らすことになった。

先日テレビをつけると、地元特集で知った顔がテレビに映っていた。テレビをぼーっと見てるうちに、そういや故郷に久しく帰ってなかったなぁ…とふと思い、今朝になって思い立ったように車を走らせ故郷を訪ねた。

実家には何度か帰ってはいたものの、実家以外の場所によることもなく、本当に10数年ぶりくらいに故郷の小学校付近を歩いてみた。

歩いてみて驚いたのは、自分が小学生だった頃にあったものが、(劣化しているとはいえ)まだあったことである。


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小学生時代毎日乗っていたバスのバス停も、バス停の表記は薄れたとはいえ変わらずそこに建っていた。

小学校のそばにある神社の鳥居。

ここに石を乗せると願いが叶うという誰が言い始めたかわからない噂を信じて、みんなでせっせと石を投げていた。

相変わらず鳥居には大量の石が乗っており、まだあの噂はこのあたりの子供に引き継がれているのかな?なんてことを思った。


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小学校の方へ歩いていくと、どうやら大規模な修繕を行うらしく、グラウンドが閉鎖されていた。

敷地には入れないので遠くから校舎を眺めると、かつてこの場所で過ごした6年間が鮮明に思い出された。

小学2年生のときに作ったクリスマスケーキ、3年生の時の怖い担任の先生。6年生まで面倒を見ていたウサギたち。

どれもこれも今まで忘れていたエピソードが記憶のタンスから一斉に飛び出してきた。

 

ああ、これが故郷なのか。

 

自ら望んで出ていったこの故郷に、心のどこかで俺は帰りたいと思っているのかな。

 

そんなことを考えながら車に乗り込み帰ろうとすると、遠くに子供を抱えたかつての知り合いが見えた。

 

ああ、思い出の中での君は幼いままだけれども、実際にはこうして歳を重ねているんだね。

 

知らない間にそれぞれの時間を生きている。

故郷を捨てたもの、故郷に残ったもの。

かつて同じ場所からスタートしたそれぞれの人生は今、いったいどこにいるのだろうか。

郡上おどりの思い出

大学3年生の時に、ゼミの仲間に誘われて郡上の徹夜踊りへ参加したことがあります。

先日郡上に行く機会があり、「郡上踊り」のポスターをみて懐かしい気持ちになりました。

私たちは美濃太田から長良川鉄道に乗り、郡上八幡駅を目指しました。

長良川鉄道は車両がその時は2両だったのかな?

普段も1両とかで非常にかわいらしい路線なのですが、その日はすし詰め状態で非常に息苦しかったのを覚えています。

新型コロナが流行る前でしたので、さほどすし詰めでも不快ではなかったのですが、今あの状態の電車に乗ったら少し身構えてしまうかもしれません。

話がそれましたが、郡上八幡駅に到着した我々は、踊り会場を目指して歩き始めました。

踊り会場はいわゆる城下町のあたりになりますので、駅からは少しだけ歩くのですが、道中私たちと同じような浴衣姿の人が大勢いて、踊り会場へ行くのが楽しみだったことを思い出します。

踊り会場に着くと、もうとてつもない熱気でした。日中の郡上八幡とは全然違う姿にただただ興奮したのを記憶しています。

道の通りに長い輪を描くように人々は踊り、好きなタイミングで輪から外れ、好きなタイミングで戻ってくる非常に自由なお祭りです。

若い人は酒を飲みながら、小さな子供はサイダーをこぼしながら楽しく踊っていました。

あれから数年。

あの楽しい夜のことを懐かしみながら当時の写真を眺めています。

今年は徹夜踊りが開催されるとのことで、ぜひとも予定が合えばあの興奮をもう一度味わいに夜の郡上八幡へ行ってみたいものです。