美濃んちゅの酒場

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文化の枠組みとは

文化という言葉を私達はごく当たり前に使用していますが、おそらく文化というものを真に理解している人はいないのではないでしょうか。

辞書的な意味合いで言えば正解はあるでしょうが、今私がこの場で皆さんに「今から文化を表すものを持ってきて」と伝えたならば、きっとおそらく、100人いれば100人が同一のものを全員持ってくることは難しいでしょう。それどころか、なにも持ってこない人もいるでしょう。

そもそも文化とは、形に現れ表現される場合もありますが、物質として存在しないことも多くあります。例えば和歌であったり洋楽であったり民謡であったり、はたまた口上であったり。

必ずしも文化が物質として存在するわけではありません。文化とは、人々の生活、営みによって生み出されたあらゆるものを指すので、その対象は慣習であったり、道具であったり、食べ物であったりして1つではないのです。

さて、私たちが文化を語るときに無意識に行っていることがあります。

一体なんでしょう?

秘密のケンミンショーという番組があります。私も好きでよく見ているのですが、そこで語られる「文化」こそが、今回のタイトルを簡潔に指し示す事例として適しています。

もうおわかりでしょうか?

私達は文化を語るときに無意識に「文化に枠をもたせている」のです。

いったいどういうことか。

例えば上記の番組では都道府県ごとの伝統的な食べ物であったり独自の食べ物を紹介するコーナーがあるのですが、その際に「◯◯県民のごちそう」という語り方をします。

一見これはなんの問題もない語りに聞こえます。ところがそこを気になってしまうのが地理学を噛っていた性なのでしょう。この語りこそが、我々が犯しがちな文化の誤った認識、枠付けなのです。

私の住む岐阜県を事例に出してみましょう。

例えば、上記の番組で「岐阜県民のごちそう」として「へぼ」を出したとしましょう(ほんとに紹介されたかは別問題)。

番組では美味しそうに、嬉しそうにへぼを食べる岐阜県民の姿が映し出されます。他県の人は、「ああ、岐阜県民にはへぼがごちそうなんだ」と認識する人もいるでしょう。

他県の人から見たらスムーズに「へぼ=岐阜県民のごちそう」という語りが受け入れられました。ところが、岐阜県民のなかからこれに異を唱える人が出てくるのです。

へぼは岐阜県の中でも主に東濃地方で食べられる食材です。県庁所在地の岐阜市や西濃地方の人にとってはほとんど馴染みのない食材になります。東濃の人にとってはごちそうであるへぼも、岐阜市の人にとってはただの虫に見えてしまうこともあります。

彼らは同じ岐阜県民でありながらも、へぼに対する認識が違うのです。

このように、上記の番組では県の外部の人間によって県内部の「一部の地域」の文化にスポットライトが当てられ、そのごくローカルな文化に「県」という枠を授けて他県の人に見せるという語りが多用されます。

番組をみている他県の人の思う岐阜県と、番組をみている岐阜県民では、同じ岐阜県の文化でも想起される枠が異なるのです。

これこそが、私のライフテーマである「文化の枠組み」です。

上記の番組に限らず、私達はごく自然と文化に枠を持たせます。当然私もよくやってしまいます。そしてそれは日常生活においては、なんの問題も生みません。そのためあまり注視することもありません。

私は、文化に枠を持たせることは悪であるとは全く思っていません。ごく自然に行っていることですから。

私が人生をかけて探すのは、文化に枠を持たせることが善か悪かということではなく、文化の境界線というものがどういう時に現れ、どういう経緯で生まれたのかということなのです。

境界線と言っている時点で、もう枠組みがある前提で話しています。しかしここでいう枠組みとは、人によってスケール認識の異なる枠ではなく、絶対的な枠組みを見つけ出したいのです。

そんなものがあるのかはわかりませんし、あったとしても、このグローバル時代にあったはずの枠組みが残っていくとも限りません。

 

答えを私の人生の終了までに見つけられるといいのですがね…。