美濃んちゅの酒場

岐阜を愛する若者が、様々なことを調べたり調べなかったりするブログです。ローカルネタから真面目なネタまでジャンルはゆるめです😁✨✨覗いてみてください。

緊急事態宣言解除後の名古屋

私の職場は名古屋市にある。

残念なことにテレワークにはならなかった悲しい職場に、緊急事態宣言が発令されている間も通い続けた。

そんな私が今日、緊急事態宣言が明けた名古屋市で1日過ごして、実際のところ人の増減があったのかを、身の回りという限られた範囲で紹介する。

まず、結論から述べよう。

先週までと今日で人が増えたか減ったかで言えば、圧倒的に増えた。

去年の今頃と比較すればまだまだ少ないだろうが、先週の月曜日と比較したら断然増えた。

実際、2月まではお昼時でもすんなり入店できた行きつけの飲食店に行列ができており、なんと12時半を手前に用意していた材料がなくなり臨時閉店となってしまった。

また、会社への電話が異常に多かった。

中には、「テレワークが解除されたので、以前のように対面で打合せしましょう」といった案件が6件ほどあった。

緊急事態宣言が解除されたので、テレワークから通常出社へ移行する会社が、割りとおおい気がした。

極めつけは帰りの電車だ。

先週までならまだ人が並んでいなかった時間帯に、既に多くの人が並んでいる。久しぶりに満員電車を味わった。

実際に数字上のデータで名古屋の人手を私は確認していないので、客観性にかける部分が多いが、今日1日でかなり人手は以前の状態に戻った感じがする。

まだまだ予断は許さない状況が続くと思うが、このまま以前の暮らしに戻れたら嬉しい。でも満員電車はやっぱりいやだなぁ。

ひな祭りは4月3日

今週のお題「雛祭り」

 

というわけで、地元の雛祭りのお話を少しだけ。

私の地元である岐阜県東濃地方では旧暦に合わせて雛祭りを4月3日に行っていました。最近は若い世帯や移住してきた世帯が増えたことで必ずしも4月3日に行わない家庭も増えてきましたが、恵那や中津川などのスーパーに行けば4月になっても雛あられがバンバン売られています。

そんな雛祭り、残念ながら私は男の子でしたので直接的にその利益を享受していたかは怪しいですが、友達の家で飾られていた雛人形は大変立派でした。女友達と雛遊びをして、雛あられを食べて、記念写真を撮る。

そんな美しい思い出が僕にはありませんでした。

残念。

同級生の女の子がそもそも地区に4人しかいなかったうえに、僕の家が地理的に非常に不便な立地だったため雛祭りなんてした記憶がありません(いいわけ)

時を戻せたら、好きだったあの子の家に雛人形を見るという名目で遊びに行きたい。

なんてこの文章をその子が読んだら気持ち悪がるかな(笑)。

その子には高校の時長年の想いをぶちまけて見事玉砕しているので、まあ良しとしましょう(?)

その子とは振られた後しばらくは気まずかったけれど、20を超えて一度だけ友人を介して飲みに行ったこともあったし、そのころにはお互いに彼氏彼女いたし、僕の玉砕事件も笑い話にできましたとさ。

雛祭りから話がそれましたが、こういう伝統は今後も続いて行ってほしいですね。

ちなみに4月3日に雛祭りをすると、男の子の兄弟がいる家庭では連続して端午の節句の準備ができるので楽なのだそうです。

以上

とろろそば

まだ私が木曽路に近い場所に住んでいた頃、半年に1度くらいのペースで訪ねる蕎麦屋があった。木曽福島に本店を構える某蕎麦屋。国道沿いにも、中津川にものれんを構える立派な店である。

私とその蕎麦屋との出会いは齢13の頃、母が中津川の店舗に連れて行ってくれたのが最初だと記憶する。当時から地元では有名であったその店は、開店したばかりだというのに既に行列ができていた。

しばらく並んだのち、座敷の席に通された。店内には天ぷらの揚がる音や、蕎麦を切る音であろうか、トントントンという音、そして家族連れのにぎやかな声が充満していた。

私はとろろかけそば(冷)を頼んだ。

中学生がなぜとろろそば?と思うかもしれないが、当時から現在に至るまで、その蕎麦屋ではとろろそば(冷)しか頼んだことがない。

そば通ならざるそばを食べるべきだと思うが、私はそば好きであってそば通ではないので、そのあたりのプライドみたいなものが一切ない。当時自分がはまっていた「とろろ」がのったそばが食べたくて注文した。そしてそのとろろそばがおいしかったから、それ以来この店ではとろろそばしか頼んでいない。逆に言えば、とろろそばを食べるためにこの店に行くのだ。

さて、このとろろそばの魅力であるが、言葉では語りつくすことができない。つゆととろろをかき回し、白い雪のようなとろろの下から顔を出す太めの蕎麦。香りがいい。本店と中津川店で少し味わいも違うのもいい。どう違うかといわれると、正直わからない(笑)。雰囲気かな。どちらもおいしい。

コロナ禍になってめっきり行っていない。

早くあのそばを食べに行きたい。

 

癖毛がしんどい

私の髪は癖毛である。

剛毛なのに癖毛である。

短髪のときはモヒカンとかにすればいい感じになるけれども、ある程度伸びてくると石川五右衛門もびっくりな五右衛門ヘアーになってしまう。

お前いったいどこに向かって伸びていくんだ!?って突っ込みたくなるくらい、重力に逆らってあっちにいったりこっちにいったりする。

生まれ変わったら柔らかい軟毛になりたい。

さらさらヘアーのマシュルームヘアーにしてみたいね。

火曜日休みの週はモチベーションの上げ方がわからない

今週は火曜日が休みということで、今日は水曜日ですが月曜日の気分で出勤しました。

普段の週ですと、月曜にエンジン試し運転、火曜日にいったんエンジンを止め、水曜日に再度エンジン起動、木曜日に動き始め、金曜日にフルスロットル、休日にエンジンを取り外してリフレッシュという感じで仕事と向き合ってうまいことやっています。

ところが今週は月曜にエンジンをかけたら次の日エンジンを取り外すことに。

そして今日再びエンジンをつけて試し運転。明日は木曜なので本当ならばいい感じでエンジンが動き始めるのですが、試し運転の後は強制的にエンジンがストップするのが雪丸の欠点。

明日は既にエンジンストップが確定しているのです。

そして金曜日に再びエンジンを起動するのですが、本格的に動き始める前に休日になってしまう。今週私はエンジンを本格的に動かすことができない。不完全燃焼状態。

まあ甘えてないで明日エンジンをかけろって話なんですけど。

というどうでもいい雑談でした。

皆さんは今週いい感じに乗り切れそうでしょうか??

麒麟がくる総集編

いやーーーよかった!!

美濃編から本能寺編まであっという間の4時間だった!

初めてちゃんと大河ドラマを見たけど、いいね。最高だった。

明智光秀人気が高くなることを美濃んちゅとして祈りながら、またいつかどこかで番外編をやってくれることを願います!

鉄道忌避伝説ってなに?

歴史に興味があり、街歩きをしている人々の中には次のような疑問を抱く人がいるかもしれない。

「どうして鉄道の駅と江戸時代の宿場が離れているのだろう」

気になった人々は地元の図書館に向かい、市町村史を開く。

そこにはこんな一文が書かれているかもしれない。

「鉄道を誘致する際に、旧宿場町から反対運動が起きたため、鉄道の駅を町のはずれに建設するしかなかった」

なるほど、と納得しがちなこの一文こそ、社会学や人文地理学の世界であまりにも有名な「鉄道忌避伝説」である。

「伝説」といわれるように、この説明は残念ながら事実ではない。

ところが古い市町村史にはこの「伝説」があたかも「史実」であるかのように記されているから困ったものであるし、郷土史家の中にも「史実」と信じて疑わない者がいまだにいる。

学問の世界では常識となりつつある「鉄道忌避伝説」だが、ここでふとあることに関して疑問に思われる人もいるだろう。

ではなぜ鉄道の駅と宿場は離れているの??

今日は簡単にその説明と、岐阜県で実際にあったとされる「街道忌避運動」について紹介したい。

宿場側の視点

江戸時代に整備された多くの街道。その中でも主要な街道とされた5つの街道を五街道と呼ぶ。江戸時代には今のように自動車や電車などなかったため、移動手段は基本的に街道を利用する陸路か船を利用する海路であった。

陸路では徒歩がメイン手段であり、当時の旅人は1日に40km程度歩いていたというのだから驚きだ。旅人や役人、物流でもなんでもそうだが、移動を伴う場合には必ず休憩場所が必要となる。人でも馬でも牛でも休憩が必要なのだ。

例外はあるが、多くの宿場は峠の前後や河の周辺に作られた。当時の街道は、整備されているとはいえ、難所と呼ばれるひどい道が多かった。それは幕府の防衛策なので仕方ないことであるが、現在の国道に匹敵する五街道の一つ中山道でもひどい道が多かった。そんなひどい道を歩いて旅をするのだから、峠の前後では休憩したいよね。

当然宿場の設置の理由はそんな安易なものではないが、結果として峠の前後などに多くの宿場ができた。これこそが、鉄道忌避伝説の答えといってもいいかもしれない。

鉄道側の視点

鉄道鉄道と一言でいうけれど、日本に鉄道ができたころは今のような電車ではなく蒸気機関車だった。鉄道忌避伝説ではこの蒸気機関車から発生する黒煙を宿場の人々が嫌がったとか、利用客がとられるからといった語られ方をすることが多い。実際煙を嫌がる人もいたのかもしれないが、私が知る限りでは、それが鉄道と宿場が離れる理由になったという資料はない。

鉄道と宿場が離れて作られた最も有力な理由は、人々の感情ではなく、「地理特性」によるものであると最近は説明されている。

どういうことだろう?岐阜県で見てみよう。

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これは岐阜県の東部を拡大した画像。作るのが面倒だったのでありあわせの画像で申し訳ない(凡例すらない)が順に説明するとJR線路マークがJR線、赤い線が明治時代に主要だった街道、特に最も北を走る街道が中山道である。(わけあって土岐郡恵那郡可児郡の3郡の範囲しか伸びていないがお許しいただければ嬉しい)
これをみると中山道とJR線は確かに離れているように見える。

いったいなぜ?

中山道は先ほども書いた通り峠道が多かった。それに伴い宿場も峠の前後にあると先ほど述べた。

そんな山道に、鉄道を建設する技術が当時なかった

これが答え。

嘘みたいでしょ?でもこれは事実なのです。

鉄道が日本にやってきたとき、鉄道を忌避する動きどころか誘致する運動が盛んに起こった。

岐阜県では現在の国道19号線に相当する下街道(画像北から2本目の街道)沿いで盛んに誘致活動があったそうだ。特に陶磁器の一大拠点である多治見市と瀬戸市をめぐって、誘致合戦があったらしい。それもいつか紹介しよう。結局瀬戸市が候補から外された理由も、勾配という地理的要因だった。

つまり鉄道駅と宿場が離れている事実の答えとしては、「地理的要因」ということになる。実際地理的要因さえクリアしてしまえば、宿場に隣接した駅はいくらでもある(恵那駅・中津川駅など)。

鉄道忌避伝説はあくまでも伝説なのだ。

街道忌避運動

最後に岐阜県で実際にあったとされる街道忌避運動を紹介して終わる。

本当に紹介するだけなので、気になった人は自分で調べていただくか、別途コメントいただきたい。

なぜ「実際にあったとされる」という言い方をしたかというと、証拠となる資料が運動があった年代よりもやや後に書かれたため、証拠とするにはやや弱いからだ。

その運動は、明治時代の中山道沿い、現在の瑞浪市で起きたといわれる。

以前このブログで紹介した記事もあるので、そちらを見ていただきたい。

 

【明治の道路を巡る騒動】瑞浪市所蔵『中街道開削之記』から - 美濃んちゅの酒場

 

以上長々と失礼いたしました。