美濃んちゅの酒場

岐阜を愛する若者が、様々なことを調べたり調べなかったりするブログです。ローカルネタから真面目なネタまでジャンルはゆるめです😁✨✨覗いてみてください。

【明治の道路を巡る騒動】瑞浪市所蔵『中街道開削之記』から

こういうマジメっぽい記事はアクセスが伸びませんが、懲りずに書きます(笑)。

皆さんは今普通に歩いている、もしくは走っている道路がどのようにできたか考えたことはありますか?コンクリートで固めて~とかの技術的なお話ではなく、いったいなぜその道路がそのルートで走っているのか、考えたことはありますか。

私が大学生の頃に「道路がなぜそこに必要とされていたのか」「なぜその道路は不必要となったのか」などといった「道路と地域」の関係性というものを研究していました。特に江戸末期~明治期にかけての交通が専門です。

学問分野では一応「歴史地理学」という分野に属していましたが、個人的には「歴史交通地理学」という感覚で研究をしていました。

今でこそ、道路はそこらじゅうを走っていて、都市部や郊外では道路のないエリアを探すことが困難なくらいに地面に道路が敷き詰められています。

そんな数ある道路の中でも特に重要だと考えられているものが幹線道路と呼ばれる国道や県道ではないでしょうか。これらの道路は地域と地域を結びつけるという重要な役割を持っているため、現在においても交通量が多かったり、道路整備費に結構な額が使われたりするんですね。

そんな現在の幹線道路の多くの原型となる道路が作られたのが江戸末期から明治にかけてなのです。私は、それらの道路がなぜ必要とされたのか、なぜそのルートなのかといった疑問を研究していくうちに道路の魅力に取りつかれてしまったわけで、標題の資料もそんな研究途中に出会った貴重な資料でした。

『中街道開削之記』は明治時代に現在の瑞浪市に作られた中街道と呼ばれる街道の開削について書かれた資料です。瑞浪市が所蔵しており、なかなか原本を見ることは難しいですが、瑞浪市史にもその要旨が書かれています。

中街道は、瑞浪釜戸から日吉方面に上り、次月に抜けていくルートで、江戸時代には中山道の裏道として村人が使う道でした。もともとは鎌倉街道といい、江戸時代に中山道が整備されるまでは地域の幹線道路の役割を果たしていたようですが、次第に裏道になっていきました。

この中街道を明治時代に、新たにちゃんと整備しようぜ!という動きが出始めます。東濃の人ならわかるかもしれませんが、恵那方面から可児・御嵩方面に抜ける現在の主要なルートは国道19号を西進し、土岐市の大富交差点から21号を北上するあのルートですが、あのルートが整備されたのは明治の後半に入ってからで、明治初期はもっぱら中山道(大湫・細久手を通る狭い山道)がメインストリートでした(当時の国道でした。)

ただ、中山道ってすごく不便なんですね。

めちゃくちゃ細い道なんです。

おまけに山が多い。

今だからハイキングコースにもってこいの歴史街道ですが、当時の人々にとっては不便極まりない道だったのです。

『中街道開削之記』にも次のようにあります。

可児郡御嵩村の中井尻より土岐郡釜戸村に至る数里の間は、往古鎌倉街道の道筋にして即ち古の国道たり。慶長以来、世は徳川の世に移り百事社会の変遷とともに、此中の街道も亦其余勢を蒙り、是を変換して今の大湫、細久手の二駅を設けたりと雖も、此道たるや已に世人の知る如く坂路甚だ多きを以て、迚も今日の国道に適せず。依て此間を往古の鎌倉街道に従ひ、再び道路を開設して以て交通の利便を計らん(以下略) 

中山道に比べたら、中街道はかなり峠も少なく、利便性の高い道だったのですが、江戸時代の政策の結果使われなくなってしまったと。だけどもう明治時代だし、もう新しく中街道を整備しようよ!っていうお話なんです。

まあこれには利用者は喜ぶでしょうね。便利になるなら喜びますよ。道が整備されたら通行量も増えますし、沿道の村々は儲かりますしね。

ところが、中街道を整備すると困ってしまう人がいます。

そう、中山道沿いの村々ですね。自分たちより利便性の高い道路が別に出来たら、利用者が減ってしまいますから。

「中街道開削之記」には次のようにあります。

日吉村北部の七組は凡て一体に不服を唱へ、殊に細久手駅は之が主唱となって大に之に反抗し、昼夜役場へ押寄せて、非常に拒絶を主張し、一方に於ては直に郡衙に向て哀情を訴願し、中々容易に開削なさしめまじきの景勢にて、遂に戸長(中略)の居宅を焼き払う等の落書を為して充分脅嚇の威を示し 

 中山道沿いの細久手はめちゃくちゃ反発した様子がわかります。

中街道の開削の賛成派の戸長の家を焼くぞとまで言ってるわけですからね(笑)。笑えないか。中山道サイドとしては生死がかかってますからね。

 

最終的には中街道は県道として整備されます。

その後地域でもろもろあって、地域の主要道路は現在の国道19号に移っていくのですが、中山道と中街道の関係って、現在の旧道とバイパスの関係にちょっと似てますよね。

 

そんな過去と現在の類似点を考えさせてくれる貴重な資料の一つである「中街道開削之記」を一部紹介しました。

またこの記事のアクセスが良ければもう少し面白く書いてみようかなと思います。アクセス伸びなければ、お蔵入りで(笑)