美濃んちゅの酒場

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鉄道忌避伝説ってなに?

歴史に興味があり、街歩きをしている人々の中には次のような疑問を抱く人がいるかもしれない。

「どうして鉄道の駅と江戸時代の宿場が離れているのだろう」

気になった人々は地元の図書館に向かい、市町村史を開く。

そこにはこんな一文が書かれているかもしれない。

「鉄道を誘致する際に、旧宿場町から反対運動が起きたため、鉄道の駅を町のはずれに建設するしかなかった」

なるほど、と納得しがちなこの一文こそ、社会学や人文地理学の世界であまりにも有名な「鉄道忌避伝説」である。

「伝説」といわれるように、この説明は残念ながら事実ではない。

ところが古い市町村史にはこの「伝説」があたかも「史実」であるかのように記されているから困ったものであるし、郷土史家の中にも「史実」と信じて疑わない者がいまだにいる。

学問の世界では常識となりつつある「鉄道忌避伝説」だが、ここでふとあることに関して疑問に思われる人もいるだろう。

ではなぜ鉄道の駅と宿場は離れているの??

今日は簡単にその説明と、岐阜県で実際にあったとされる「街道忌避運動」について紹介したい。

宿場側の視点

江戸時代に整備された多くの街道。その中でも主要な街道とされた5つの街道を五街道と呼ぶ。江戸時代には今のように自動車や電車などなかったため、移動手段は基本的に街道を利用する陸路か船を利用する海路であった。

陸路では徒歩がメイン手段であり、当時の旅人は1日に40km程度歩いていたというのだから驚きだ。旅人や役人、物流でもなんでもそうだが、移動を伴う場合には必ず休憩場所が必要となる。人でも馬でも牛でも休憩が必要なのだ。

例外はあるが、多くの宿場は峠の前後や河の周辺に作られた。当時の街道は、整備されているとはいえ、難所と呼ばれるひどい道が多かった。それは幕府の防衛策なので仕方ないことであるが、現在の国道に匹敵する五街道の一つ中山道でもひどい道が多かった。そんなひどい道を歩いて旅をするのだから、峠の前後では休憩したいよね。

当然宿場の設置の理由はそんな安易なものではないが、結果として峠の前後などに多くの宿場ができた。これこそが、鉄道忌避伝説の答えといってもいいかもしれない。

鉄道側の視点

鉄道鉄道と一言でいうけれど、日本に鉄道ができたころは今のような電車ではなく蒸気機関車だった。鉄道忌避伝説ではこの蒸気機関車から発生する黒煙を宿場の人々が嫌がったとか、利用客がとられるからといった語られ方をすることが多い。実際煙を嫌がる人もいたのかもしれないが、私が知る限りでは、それが鉄道と宿場が離れる理由になったという資料はない。

鉄道と宿場が離れて作られた最も有力な理由は、人々の感情ではなく、「地理特性」によるものであると最近は説明されている。

どういうことだろう?岐阜県で見てみよう。

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これは岐阜県の東部を拡大した画像。作るのが面倒だったのでありあわせの画像で申し訳ない(凡例すらない)が順に説明するとJR線路マークがJR線、赤い線が明治時代に主要だった街道、特に最も北を走る街道が中山道である。(わけあって土岐郡恵那郡可児郡の3郡の範囲しか伸びていないがお許しいただければ嬉しい)
これをみると中山道とJR線は確かに離れているように見える。

いったいなぜ?

中山道は先ほども書いた通り峠道が多かった。それに伴い宿場も峠の前後にあると先ほど述べた。

そんな山道に、鉄道を建設する技術が当時なかった

これが答え。

嘘みたいでしょ?でもこれは事実なのです。

鉄道が日本にやってきたとき、鉄道を忌避する動きどころか誘致する運動が盛んに起こった。

岐阜県では現在の国道19号線に相当する下街道(画像北から2本目の街道)沿いで盛んに誘致活動があったそうだ。特に陶磁器の一大拠点である多治見市と瀬戸市をめぐって、誘致合戦があったらしい。それもいつか紹介しよう。結局瀬戸市が候補から外された理由も、勾配という地理的要因だった。

つまり鉄道駅と宿場が離れている事実の答えとしては、「地理的要因」ということになる。実際地理的要因さえクリアしてしまえば、宿場に隣接した駅はいくらでもある(恵那駅・中津川駅など)。

鉄道忌避伝説はあくまでも伝説なのだ。

街道忌避運動

最後に岐阜県で実際にあったとされる街道忌避運動を紹介して終わる。

本当に紹介するだけなので、気になった人は自分で調べていただくか、別途コメントいただきたい。

なぜ「実際にあったとされる」という言い方をしたかというと、証拠となる資料が運動があった年代よりもやや後に書かれたため、証拠とするにはやや弱いからだ。

その運動は、明治時代の中山道沿い、現在の瑞浪市で起きたといわれる。

以前このブログで紹介した記事もあるので、そちらを見ていただきたい。

 

【明治の道路を巡る騒動】瑞浪市所蔵『中街道開削之記』から - 美濃んちゅの酒場

 

以上長々と失礼いたしました。