はてなインターネット文学賞「記憶に残っている、あの日」
そこに野井と呼ばれる地区がある。
山野とのどかな田園風景が広がるその村から、わたしはずっと逃げ出したかった。
刺激のない退屈な毎日を捨て去り、エキゾチックで刺激的な都会の生活に憧れ、私は家を飛び出した。
あれから数年、時折あれほど嫌だった故郷のことを思い出す。
今日はそんな思い出話を一つ、読者の皆様へ語らせてもらう。
私が高校1年生だったころ、すなわちもう10年ほど前のこと。
実家から地元の高校へ通っていた私のもとに、近所のおじさんが訪ねてきた。
そのおじさんは、近所ではあまり評判がよくない人物であったが、私の亡くなった祖父と幼馴染だったということもあり、昔からよく世話を焼いてくれていた。
そのおじさんが、玄関先で母となにやら話し合っており、母がため息交じりに私に声をかけた。
「あんた、今年の獅子舞やるつもりある?」
野井地区では年に一度、秋の例大祭が武並神社という郷社で執行される。
獅子舞はその際に奉納する舞であり、慣例的に24歳前後の若衆が奉納することになっていた。
しかしながら、少子高齢化の波はこの長閑な農村も例によらず飲み込み、24歳前後の若者は1人もおらず、やむなく高校生や中学生で今年は奉納することにすると、寄合で決まったそうだ。
「いやいや、若者で奉納する本人の意思決定権はないのかよ」
と私は心の中で思ったが口にしなかった。
不機嫌そうな母の顔を見たら、すでにその言葉は母が近所のおじさんにすでにぶつけた後だと察した。そしてそのうえで、私には拒否権がないことも同時に悟った。
その日の夜、早速近所の集会所で寄合が行われ、私のほかにも数人の若者(全員もれなく顔見知り)及び組(自治会よりも小さな組織)の人間が集まった。
そこで議論されたのが、「誰が獅子をやるか」ということだった。
例大祭での獅子舞は、牡獅子、雌獅子の2体がお囃子に合わせて舞を踊るもので、各獅子には男がそれぞれ一人ずつ入る。
慣例的に、若衆の年長者から順に牡獅子、雌獅子、補佐役(2名)という形で役割が与えられるが、なぜか年が上から3つ目の私が雌獅子を担うことになった。
これも近所のおじさんがほぼ独断で決めたため、やや寄合が紛糾したものの、結果的に私が雌獅子を担うことになった。
それからは毎週3日ほど夜になると集会所に集い舞の練習をした。
牡獅子役の若大将が仕事の都合で練習に出れないときは、かなり揉めていたが、おおむね順調だった。
しかし事件は前夜祭で起こった。
集会所で翌日の例大祭を祈念するために前夜祭が行われていた。
最後の獅子舞練習が終わり、大人たちが酒宴を開き始めた時、例のおじさんが牡獅子役の若大将とまたもめだした。
内容は詳しくわからないが、おじさんが若大将に余計なことを言ったせいで若大将がキレた感じだったと記憶している。
若大将は祭りに出ないと言い、周りの制止を振り切り帰宅してしまった。
若大将の父親が家に帰ってなだめる、明日は必ず連れて行くからと皆に陳謝し、前夜祭は微妙な空気に包まれて終了した。
祭り当日。
集合時間よりも少し早めに行くと、若大将が一人で立っていた。
挨拶をすると、若大将は「昨日はすまんかった」と頭をかきながら私に言った。
「あのおっさんは嫌いだけど、まあ今日はしっかりやろうな」
若大将のセリフを聞き、ひとまず安堵した。
獅子舞の奉納は、各組の子供会が地区内を神輿を担ぎながら練り歩いたのちに行われる。奉納する人間は、子供たちが神輿を担いでいる中でお払いの神事などを厳かに執り行う。
そしていよいよ奉納の時。
まずは巫女に扮した若い女性陣による浦安の舞が奉納される。この女性たちも私たち獅子舞組と同様に地域の若い女性たちで、全員もれなく顔見知りだ。
浦安の舞が終わると、いよいよ獅子舞の奉納である。
この獅子舞は「重箱獅子」と呼ばれ、その名の通り獅子の頭が重箱でできている。
伝説によれば、徳川家康が甲斐の武田信玄に敗れたあと、野井に落ち延び、農民たちが踊っていた重箱獅子にまぎれて難を逃れたとされているが、これは所詮伝説である。
ともあれ、この重箱獅子が古くから地元住民によって受け継がれてきたことを証明している。
いよいよ獅子舞がはじまった。
獅子の中は、はっきり言って、外の景色が全く見えない。
感覚でやるしかない。
しかも雌獅子は牡獅子よりも1テンポ遅れて行動しなければならず、それも非常に難しい。
さらに、実際に神社の祭殿で奉納するのは初めてであり、普段練習してきた集会所とは比べ物にならないほど動きにくい。
そんな中であったが、なんとか無事に奉納を終えることができた。
10年前ですら、若者が少なかった土地で、現在も舞の技術はきちんと継承されているのだろうか。故郷を捨てた私がとやかく言うことではないが、舞が今後も継承されて行ってほしいと心から願っている。故郷にいつか戻るのかはわからないが、獅子舞を経験した私にできることがあれば、支援はしたいと思う。
獅子舞の後、若大将が「成人したら一杯つきあってな」と声をかけてくれたが、結局その約束は果たせていない。今も彼は地元に残っているのだろうか。
今年も彼らと過ごした夏の夜がやってくる。