美濃んちゅの酒場

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故郷に思いを馳せて

12月31日、大みそか
昨年まで大みそかは実家で祖父の命日供養を兼ねて親戚で集まっていたので、実家以外で大みそかを迎えるのは初めてかもしれない。

私は故郷が嫌いなわけではないが、決して好きではない。
20何年過ごしてきた町(村)を、嫌いになろうと思ってもなかなか嫌いにはなれない。
どれほど故郷のことを嫌っても、良い思い出も悪い思い出も含め、自分自身には故郷のDNAが細胞深く刻み込んであり、その事実を認めないわけにもいかない。しかし実際は、離れてみて改めて気づく嫌な部分も多くある。留学生が日本に帰ってきて、「日本のここがだめ」という気持ちが今なら少しわかる。

おそらく私が東京や大阪などの都市部に引っ越していたら、また故郷に対する気持ちも異なっていたのかもしれない。東京に行った人が地元に帰りたいと洩らすように、都会の喧騒に疲れて地元に帰りたくなることもあったのかもしれない。

しかし私が今住んでいる場所は、故郷よりは栄えているが、地方都市とも言い切れないレベルのほどよい田舎である。故郷に暮らしていた時のような監視社会にも近いご近所付き合いや、言葉で説明しづらい閉塞感はこの街にはなく、東京で暮らしていた時のような喧騒もこの街にはない。
必要なものは揃っているし、最低限の娯楽もあり、自然も豊富。
私にとってはまさに理想的な環境である。

家族や親族によく「帰ってこい」といわれる。

この「帰ってこい」は「帰省してこい」という意味は当然あるが、「引っ越して地元に戻ってこい」という意味を内包している。

特に私は長男であるから、家から出ていかないことが常識という田舎のルールに則るのであれば、今住んでいる場所からいずれは引っ越し、地元に戻ることになるだろう。

しかし、私は帰らない。
実家に戻るつもりもない。
(こういうと、親族と揉めるわけだが…)

故郷に戻らない理由は単純明快で、今住んでいる街が住みやすいからだ。
故郷にいた時にできたことはほぼ全て今の環境でもできる上、故郷にいた時にはできなかったことも今の環境では容易にできる。つまるところ、故郷に帰りたいと思えるほどの理由がないのだ。

そしてもう一つ、家族や親族と私との間にある認識の差が揉める一因となっている。
先ほど故郷に戻るつもりはないと言ったが、たまに故郷(地元)に戻ることも当然ある。
それは仕事だったり、ちょっとした観光だったりするわけであるが、すでに私は故郷の「内部者」ではなく「外部者」であり、ここに私と家族の認識の差がある。

家族にとってみれば、今現在未来に至るまで、「私(雪丸)」は地元(故郷)に内包する「家族の構成員」であり、地元(故郷)の内部者である。地元の内部者たる私は、地元のルールに則った生活を送ることを求められるというのが親族の言い分である。

しかし私にとっては、すでに地元は「故郷」であり、あくまでも「かつて自分が住んでいた場所」である。私から見た故郷は「外部」のものであり、過去のものである。外部者たる私には「内部者」に求められるルールは無効であり、古い慣習に縛り付けるな、というのが私の言い分である。

この認識の差が、私と親戚家族との間の溝を深め、故郷とますます距離を置くことになっていく。
そうなると、家族は悲劇的な状況に陥る。
故郷に残してきた妹が、苦境に立たされている。

詳しいことは書かないが、私が出てきたことにより、いろいろと苦労をかけているようだ。
本当にすまない。

もちろん故郷全部にこのような古い慣習が残っているわけではない。
時代の移り変わりによって、悪習ともいえる習慣が消えつつある地域もある。
その中で私の実家のある地域や親族の住む地域が、故郷の中でも古い体質を持っていることは、まこと悲しいことかな。

 

今日は大みそか。年越しそばを家族で食べる人も多いと思う。
伝統と慣習。
悪習も残すべき伝統と言ってしまえばそれまでだが、皆さんはどう思うだろうか。