幼いころ、友達の家に遊びに行った時、「おまたせ~」という言葉と共に友達のお母さんが持ってきてくれたおやつ。
2種類のお菓子を2人で分ける。
しかしどちらもおいしそう。
選ぶことができない。。
どちらか一択しか選ぶことができないのは苦痛。。
「じゃんけんで勝った方が先に好きなの選ぼうよ!」
そう言ってくれた友達。
そうか、じゃんけんをすればいいのか!少年たちはじゃんけんに臨む。
「じゃんけーんぽん!!あいこでしょ!!あいこでしょ!!わぁい!勝った!!」
友人との熱戦に勝つことができた雪丸少年は、お菓子を先に選ぶ権利を手に入れます。
ところが、ここで少年は、じゃんけんが当初の問題をまったく解決していない事実に気が付きます。
じゃんけんにより先行選択権を手に入れたものの、選び難い2択の壁がそこに立ちふさがっているのです。少年にとってその壁は、己の力で選びきることができないものでした。
目の前にある2つの宝、しかし手にすることができるのはただ1つ。
ここまでくると、もはや頼ることができるのは、あの存在しかいない。
そう。
GOD。
またの名を神様。
少年は神に祈る。
そしてあの祝詞を唱えるのです。
「どちらにしようかな。天の神様の言う通り。鉄砲撃ってバンバンバン。死んじゃった。」
こうして、神が選んだお菓子を少年はおいしそうにいただくのでした。
さあ、違和感を持った方もいるのではないでしょうか。
この祝詞(数え歌)は「どちらにしようかな」と呼ばれるもので、何かを選ぶさいに使われるものなのですが、非常にバリエーションが豊かなのです。
私雪丸は、幼少期を岐阜県東濃の山間で過ごしましたが、小学校ではこの「鉄砲撃ってバンバンバン。死んじゃった」が主流でした。
主流というか、これが使われていました。
私の幼少期を通じて会得した「どちらにしようかな」という祝詞は、鉄砲撃って死んじゃうものでしたので、このバンバンバンして死んでしまうことに対して、一切の疑いを持つことはございませんでした。
神様に選んでもらうのだから、やはり犠牲となる命は必要なのだろう。
そんな風に思っておりました。
私の価値観が崩壊するのは、大学生になってからでした。
民俗学の講義を受けている際に、この「どちらにしようかな」が取り上げられました。
その時に、「神様の言う通り」の後ろの文言にさまざまなバリエーションがあることを知ったのです。
- 鉄砲撃ってバンバンバン。柿の種。
- 鉄砲撃ってバンバンバン。もひとつおまけにバンバンバン。
- なもしのなもしの柿の種。
- ちちぱちちぱの柿の種。
講義中に学生たちが自分の土地を代表する祝詞を披露していきました。
私が覚えているだけでこれだけのバリエーションがありました。
私が「どれにしようかな」の豊富なバリエーションに驚いたことは言うまでもありませんが、誰も死んでいないことにも同じく衝撃を受けました。
私の知っている神様は、何か人間が選択を神に迫る際に必ず犠牲を要求していた残虐な神であったので、鉄砲撃った後にどこから出てきたのかよくわからない柿の種やなぞの呪文によって生まれる柿の種で人間を導く穏やかな神がいることに衝撃を受けました。
しかしその一方、鉄砲を撃ったのちに「おまけ」と称して再び鉄砲を撃つ残虐な神がいることにも衝撃を受けました。おそらく撃たれたものは死んではいないのでしょう。死なない程度に再び銃撃するその執念に震えました。
しかし、私の衝撃はこれだけにとどまりませんでした。
先生曰く、なんと全国にはさらに多くの祝詞があるというではありませんか。
さらに先生に言われたのは、「死んじゃうパターンは初めて聞いた」でした。
こうして私は、鉄砲を撃ち、犠牲を求める故郷の神への信仰を捨てました。
今ではすっかり「なもしなもしの柿の種」使いとなりました。
このように、子供の数え歌であったり、遊びというのは、非常にローカル色が強くバリエーションが追っても追っても追いきれないことが多くあります。
しかしそれらの中にも、共通する項目(ここでいう柿の種や鉄砲)はありますので、それらを探していくと非常に面白いですよね。
皆さんの地域の「どちらにしようかな」はどんな言葉が後に続きましたか??