皆さんは「東美濃ナンバー」をご存じだろうか。
何年か前に中津川・恵那・瑞浪・土岐・多治見・可児・御嵩の7つの自治体で盛り上がりをみせた幻のご当地ナンバーである。
なぜ幻かというと、結局東美濃ナンバーは地元住民の反対により導入が見送られたためである。
なぜ地元の住民が反対運動を繰り広げたのかについては、理由が多すぎて枚挙にいとまがない。「東美濃はダサい」「東濃ナンバーにしてほしい」といった理由もあれば、「東美濃は恵那・中津川の呼称であって、多治見は東濃だ」といった意見もある。
多治見は東濃だ、という言説はまあわからないことはない。
恵那に住んでいた私も、東濃に多治見や恵那が含まれるのには違和感はないが、東美濃となると、何となく恵那と中津川に限定されるイメージがある(おそらくJAが原因だとはおもうが…)。
そんな中、ある自治体住民からこんな声が聞かれた。
「可児は中濃だ。東濃と一緒にしてほしくない。」
これはおそらく、多くの可児市民が感じていることではないだろうか。
そして同じく東濃の人たちも、上記の意見は理解できるだろう。
「可児は中濃か、東濃か」
今回はこれをテーマにしていこう。
そもそも県外の人にとっては、東濃やら中濃やら何の話?状態だろう。
県外の人にとっては美濃地方と飛騨地方の区分くらいしか認識されていないだろうが、美濃地方とひとくくりに言っても、実態は以下の4つ(ないし3つ)に区分することが多い。
・西濃(中心は大垣)
・岐阜地域(中心は岐阜市)
・中濃(中心は可児市)
・東濃(中心は多治見市)
おいおい、早速答えが出てるじゃないか。
可児市は中濃の中心って書いてあるじゃないか。
じゃあ可児市は中濃で決まりやね。
と、記事を終わりにさせることはありません。
あくまで上記は「現代において」一般的に語られるエリアのお話。
歴史的に見たら可児市(及び御嵩町)は、中濃ではなく東濃となのってもよい場所なのです。
一体どういうことか。
そもそも現在の市とか町という自治体区分ができたのはごく最近のこと。
かつては村という単位が主流でした。
そしてその村の上にある広域自治体区分として、郡がありました。
明治時代、東美濃ナンバーの舞台となった土地は、恵那郡・土岐郡・可児郡と呼ばれていました。
恵那郡は現在の恵那市のほぼ全域・中津川市のほぼ全域・豊田市の一部を含む広大なエリア、土岐郡は現在の瑞浪市・土岐市・多治見市にあたるエリア、可児郡は御嵩町、可児市、多治見市の一部を含むエリアでした。
可児郡に多治見市の一部が含まれているのはおいておいて、この郡の分け方には基本的には地形がかかわっていたと考えられます。
この地域には巨大な河川、木曽川が流れており、この3郡と加茂郡(美濃加茂や関など)との行き来には船を使わなければなりませんでした。
一方3郡間の行き来は中山道や下街道、今渡街道と呼ばれる陸路の利用が可能です。
船使わないといけない地域と、陸で行ける地域、どっちと親密かって言ったら、圧倒的後者だと思うんですが、いかがですか??
恵那郡と可児郡が距離的に密接だったかといわれると、微妙かもしれませんが、明治時代になると3郡を管轄する行政施設が御嵩におかれるなど、明治時代には確実にこの3郡は仲間だったはず。
そんな可児がなぜ中濃になってしまったのか。
これはもう歴史がそうさせたとしか言いようがありません。
かつて樺太が日本だったかといって、現在樺太に住む人に日本語をしゃべれと言うのは無理な話。
かつて東濃だった可児は、もういないのです。
そりゃ可児さんからしたら、中濃のライバルは美濃加茂と関ですもんね。余裕で勝てますよ。ボスのポジションはさぞ気持ちがいいでしょう。
もし東濃になったら、敵は多治見先輩ですからね。
可児さんじゃかてないっすもんね。
後半グダグダしましたが、個人的な意見を言えば、「可児は東濃だったが今は中濃でいいんじゃない?」といったところでしょうか。
正直、ご当地ナンバーで盛り上がってた頃はいろいろ思うところあったんだけど、時がたつとめんどくさくなってくるよね。
可児さん、せいぜい中濃のボス気取って頑張ってくれ。
御嵩はいつでももどっておいで!!
以上!!!